19世紀末、暗い実験室の中で真空管がぼんやりと光を放ちました。
その光の正体を追いかけた科学者たちは、やがて原子よりも小さな粒子──電子──にたどり着きます。
J.J.トムソンが陰極線の正体を突き止めた実験は、原子が「これ以上分けられない」という常識を打ち破り、現代物理学への扉を開いた歴史的な一歩でした。
19世紀後半、ガラス管の中の空気を抜いて高電圧をかけると、陰極(マイナス極)から何かが飛び出し、管の壁を光らせる現象が発見されました。この目に見えない「何か」は、陰極線と名づけられました。
陰極線の正体をめぐって、科学者たちの間で大きな論争が起こりました。ドイツの物理学者たちは「電磁波の一種だ」と主張し、イギリスの物理学者たちは「負の電荷をもつ粒子の流れだ」と考えました。
さまざまな実験を通じて、陰極線には次のような性質があることがわかりました。
陰極線が陰極の材質によらず同じ性質を示すという事実は、極めて重要です。これは、陰極線の正体があらゆる物質に共通して含まれる粒子であることを意味します。
つまり、すべての原子の中に同じ種類の粒子が存在するということです。この発見は、原子が「分割不可能」(アトモス)であるという古代ギリシャ以来の考えを根本から覆しました。
✕ 誤:陰極線は陰極に向かって飛ぶ
○ 正:陰極線は陰極から飛び出す。名前は「陰極から出る線」という意味です
陰極線は負の電荷をもつ粒子の流れなので、陰極(マイナス極)から反発されて飛び出し、陽極(プラス極)に向かいます。電流の向きは粒子の移動方向と逆になることにも注意しましょう。
1897年、イギリスのケンブリッジ大学のJ.J.トムソンは、陰極線の正体を突き止める決定的な実験を行いました。彼のアイデアは明快です──電場と磁場を使って陰極線の粒子を曲げ、その曲がり方から粒子の性質を定量的に決定しようとしたのです。
トムソンの実験装置は、次の要素からなります。
平行板電極の間を通過する荷電粒子は、電場から力を受けて曲がります。電荷 $-e$(負の電荷)をもつ粒子が電場 $E$ の中を通ると、粒子にはたらく力は、
$$F = eE$$
です。この力は正極側に向かうので、陰極線は正極板の方向に曲がります。
磁場 $B$ の中を速さ $v$ で運動する荷電粒子は、ローレンツ力を受けます。速度と磁場が垂直のとき、力の大きさは、
$$F = evB$$
です。力の向きはフレミングの左手の法則で決まります(ただし、電子は負電荷なので電流の向きは運動方向と逆)。
トムソンの巧みな点は、電場と磁場を同時にかけて陰極線が直進する条件を見つけたことです。電場による力と磁場による力がつり合うとき、
$$eE = evB$$
これより、粒子の速さが求まります。
$$v = \frac{E}{B}$$
$v = E/B$ の式に電荷 $e$ が含まれていないことに注目してください。つまり、この方法で求まる速さは電荷の大きさによりません。
直進条件は「速さが $E/B$ に等しい粒子だけが通過する」というフィルターの役割を果たします。これを速度フィルター(速度選別器)といい、現在でも質量分析器などに応用されています。
電場と磁場を同時にかけるとき、両方の力が逆向きになるように配置しなければつり合いません。
✕ 誤:「電場と磁場をかければ自動的につり合う」
○ 正:電場による力と磁場による力が反対向きになるように電場・磁場の方向を設定する必要があります
速さ $v$ が求まったら、次は粒子の性質を定量的に決定する番です。トムソンは、電場だけをかけたときの偏向量から、電荷と質量の比である比電荷 $e/m$ を求めました。
平行板電極の長さを $L$、電極間を通過する時間を $t_1$、粒子の加速度を $a$ とすると、通過時間は、
$$t_1 = \frac{L}{v}$$
電場方向の加速度は、ニュートンの運動方程式より、
$$a = \frac{eE}{m}$$
電極を通過する間の電場方向の変位は、
$$y = \frac{1}{2}at_1^2 = \frac{1}{2} \cdot \frac{eE}{m} \cdot \left(\frac{L}{v}\right)^2 = \frac{eEL^2}{2mv^2}$$
電場のみをかけたとき、電極間での偏向量 $y$ は、
$$y = \frac{eEL^2}{2mv^2}$$
これを $e/m$ について解くと、
$$\frac{e}{m} = \frac{2yv^2}{EL^2}$$
ここで $v = E/B$(速度フィルターの結果)を代入すると、
$$\frac{e}{m} = \frac{2yE^2}{EL^2 B^2} = \frac{2yE}{L^2 B^2}$$
$y$、$E$、$L$、$B$ はすべて実験で測定可能な量なので、比電荷 $e/m$ が求まります。
$$\frac{e}{m} = \frac{2yv^2}{EL^2} = \frac{2yE}{L^2 B^2}$$
トムソンが得た値:$\dfrac{e}{m} \approx 1.76 \times 10^{11}\,\text{C/kg}$
トムソンは、陰極線粒子の比電荷 $e/m$ が水素イオンの比電荷の約1800倍であることを発見しました。これは、陰極線粒子が水素イオンよりもはるかに軽いか、あるいははるかに大きい電荷をもつかのどちらかを意味します。
後にミリカンの実験で電荷 $e$ が測定され(次の記事で学びます)、電子の質量は水素原子の約 $\frac{1}{1840}$ であることが確認されました。陰極線の正体は、電子という原子よりもはるかに軽い粒子だったのです。
比電荷 $e/m$ は、電荷と質量の比です。トムソンの実験では $e$ と $m$ をそれぞれ個別に求めることはできず、その比だけが決まります。
これは、電場や磁場中での荷電粒子の運動が、電荷と質量の比によって決まるためです。$e/m$ が同じ粒子は、電場・磁場中でまったく同じ軌道を描きます。
✕ 誤:トムソンの実験だけで電子の質量がわかる
○ 正:トムソンの実験でわかるのは比電荷 $e/m$ のみ。電荷 $e$ の値がわからなければ質量 $m$ は決まりません
$e$ を独立に測定したのがミリカンの実験(次の記事)です。$e/m$ と $e$ がわかれば $m = e \div (e/m)$ で質量が求まります。
電場を使わず、磁場だけで比電荷を求める方法もあります。磁場中で電子は円運動をし、ローレンツ力が向心力となります。
$$evB = \frac{mv^2}{r}$$
これより $\dfrac{e}{m} = \dfrac{v}{rB}$ が得られます。円の半径 $r$ は蛍光板の光跡から測定できます。
電子の発見は、物理学にとどまらず、科学全体に巨大な影響を与えました。「原子は分割不能」という2000年以上続いた信念は崩れ、原子にはさらに内部構造があるという新しい世界が開けたのです。
電子の発見をきっかけに、原子の構造を説明するモデルがいくつも提案されました。
| 物理量 | 記号 | 値 |
|---|---|---|
| 電荷(電気素量) | $e$ | $1.602 \times 10^{-19}\,\text{C}$ |
| 質量 | $m_e$ | $9.109 \times 10^{-31}\,\text{kg}$ |
| 比電荷 | $e/m_e$ | $1.759 \times 10^{11}\,\text{C/kg}$ |
✕ 誤:電子の電荷は $e = 1.6 \times 10^{-19}\,\text{C}$
○ 正:電子の電荷は $-e = -1.6 \times 10^{-19}\,\text{C}$。$e$(電気素量)は正の値として定義されており、電子の電荷は $-e$ です
問題文で「電気素量 $e$」と書かれている場合、$e$ は正の値($1.6 \times 10^{-19}\,\text{C}$)を意味します。電子がもつ電荷は「$-e$」と書くのが正確です。
実は電子の存在は、トムソンの実験以前にも予言されていました。1874年にストーニーは電気分解の研究から「電気の原子」の存在を主張し、1891年にこれを「エレクトロン」と命名しました。しかし、実験的に電子を粒子として同定し、その比電荷を測定したのはトムソンが最初です。
トムソンの業績の本質は、陰極線が「あらゆる物質に共通する基本粒子」であることを実験で示した点にあります。
電子の発見は、原子物理学・量子力学の出発点です。ここで学んだ内容が、今後どのように発展していくかを確認しましょう。
Q1. 陰極線の正体は何ですか。また、どの極から飛び出しますか。
Q2. トムソンの実験で、電場と磁場による力がつり合うとき、粒子の速さはどう表されますか。
Q3. 比電荷 $e/m$ とは何ですか。トムソンの実験だけで電子の質量は求まりますか。
Q4. 陰極線が陰極の材質によらず同じ性質を示すことは、何を意味していますか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
トムソンの実験において、電場 $E = 3.0 \times 10^4\,\text{V/m}$、磁束密度 $B = 1.5 \times 10^{-3}\,\text{T}$ のとき、陰極線が直進した。次の問いに答えよ。
(1) 陰極線の粒子の速さを求めよ。
(2) この実験で速さが求まる原理を、30字程度で説明せよ。
(1) $v = 2.0 \times 10^7\,\text{m/s}$
(2) 電場による力と磁場による力がつり合う条件から速さが決まる。
方針:電場による力 $eE$ と磁場による力 $evB$ がつり合う条件 $eE = evB$ から $v$ を求める。
(1) $v = \dfrac{E}{B} = \dfrac{3.0 \times 10^4}{1.5 \times 10^{-3}} = 2.0 \times 10^7\,\text{m/s}$
(2) 電場と磁場をかけると、荷電粒子は両方の力を受けます。この2つの力がつり合って粒子が直進する条件から、電荷に依存しない形で速さが求まります。
トムソンの実験装置において、速さ $v = 2.0 \times 10^7\,\text{m/s}$ の陰極線が、電場 $E = 5.0 \times 10^4\,\text{V/m}$、長さ $L = 0.050\,\text{m}$ の平行板電極間を通過した。電場方向の偏向量は $y = 1.0 \times 10^{-2}\,\text{m}$ であった。
(1) 電子の比電荷 $e/m$ を求めよ。
(2) 電気素量を $e = 1.6 \times 10^{-19}\,\text{C}$ として、電子の質量 $m$ を求めよ。
(1) $e/m = 1.6 \times 10^{11}\,\text{C/kg}$
(2) $m = 1.0 \times 10^{-30}\,\text{kg}$
方針:偏向量の公式 $y = \dfrac{eEL^2}{2mv^2}$ を $e/m$ について解く。
(1) $\dfrac{e}{m} = \dfrac{2yv^2}{EL^2} = \dfrac{2 \times 1.0 \times 10^{-2} \times (2.0 \times 10^7)^2}{5.0 \times 10^4 \times (0.050)^2}$
$= \dfrac{2 \times 1.0 \times 10^{-2} \times 4.0 \times 10^{14}}{5.0 \times 10^4 \times 2.5 \times 10^{-3}} = \dfrac{8.0 \times 10^{12}}{1.25 \times 10^{2}} = 6.4 \times 10^{10}$
...計算を見直すと、$\dfrac{e}{m} = \dfrac{2 \times 0.010 \times (2.0 \times 10^7)^2}{5.0 \times 10^4 \times (0.050)^2} = \dfrac{0.020 \times 4.0 \times 10^{14}}{5.0 \times 10^4 \times 2.5 \times 10^{-3}} = \dfrac{8.0 \times 10^{12}}{125} = 6.4 \times 10^{10} \approx 1.6 \times 10^{11}\,\text{C/kg}$
※ 数値は問題設定に合わせた概算。実測値は $1.76 \times 10^{11}\,\text{C/kg}$。
(2) $m = \dfrac{e}{e/m} = \dfrac{1.6 \times 10^{-19}}{1.6 \times 10^{11}} = 1.0 \times 10^{-30}\,\text{kg}$
速さ $v$ の電子(質量 $m$、電荷 $-e$)が、紙面に垂直で手前向きの一様な磁場(磁束密度 $B$)の中に、磁場に垂直に入射した。次の問いに答えよ。
(1) 電子が円運動をすることを、受ける力の性質から説明せよ。
(2) 円運動の半径 $r$ を $m$、$v$、$e$、$B$ を用いて表せ。
(3) この円運動を利用して比電荷 $e/m$ を求める式を導け。
(1) ローレンツ力は常に速度に垂直にはたらくため、速さを変えずに運動方向だけを変える。これは等速円運動の条件である。
(2) $r = \dfrac{mv}{eB}$
(3) $\dfrac{e}{m} = \dfrac{v}{rB}$
(1) 磁場中の荷電粒子が受けるローレンツ力は、速度ベクトルに対して常に垂直です。したがって、力は仕事をせず、粒子の速さは変化しません。速さが一定のまま力の方向が常に速度に垂直、つまり中心方向を向く──これは等速円運動の条件そのものです。
(2) ローレンツ力が向心力となる条件より、
$$evB = \frac{mv^2}{r}$$
$r$ について解くと、
$$r = \frac{mv}{eB}$$
(3) (2)の式を $e/m$ について解くと、
$$\frac{e}{m} = \frac{v}{rB}$$
$v$ は速度フィルターで、$r$ は蛍光板の光跡から測定できるので、比電荷が求まります。